|
第二章 権利ビジネスの崩壊
なぜプログラムは著作物なのか
|
現在コンピュータプログラムは著作権で保護されている。しかし、著作権の本来の主旨からいつて、コンピュータプログラムを全て著作権で保護してもよいものだろうか。このあたりについては、まだまだ議論が足りないのではないか。まずコンピュータプログラムを全てを一括りにしていいのか、と言うテーマと、保護するにしても著作権という長い保護期間を与えることが果たして正しいのか、言う点である。
日本でコンピュータプログラムが著作権で保護されるようになったのは、1986年の著作権法の改正であった。それまでは、コンピュータプログラムには法的な権利が認められず、複製はし放題だつたのだ。それがタイトー社の「スペースインベーダー」の海賊版が猛威をふるったことで、裁判沙汰になった。1983年の横浜地裁の判決で「スペースインベーダー」の複製権が認められたことで、一気に議論が高まり、著作権の保護が行なわれた。
「スペースインベーダー」は日本でゲームソフトを一般大衆に広げたエポックメーキングなゲームだが、爆発的に広がるブームの中で販売するタイトー社が、他社にそのコピーを制限したいと思うのはいたって当然な成り行きだろう。
それまでは日本ではソフトウェアには法的な権利が認められず、複製することはあたりまえのように行なわれていた。それは単にマーケットが小さいためたいしたトラブルにならなかっただけのことであり、「スペースインベーダー」のような大儲けできる怪物ソフトが現れたことで、権利問題が顕在化したといってよい。
当時どのような議論があったのか私は知らないが、コンピュータプログラムを保護するべき派が、大勢を占め、現行の著作権法を改正し、それに含めることで決着がついたわけである。
しかしこのコンピュータプログラムの著作権法の対象にするという決着は、いわば緊急避難的な対処であって、これを未来永劫引きずっていてもいいのか、という疑問は残る。当時の情勢を考えれば、コンピュータプログラムを保護する法的なバックアップを与えるほうが、コンピュータの進展には大いに寄与したであろうし、コンピュータのプログラムには大きな価値があるということを世の中の人が知るうえでも、適切な対処であったと言ってよいだろう。しかし、議論が尽くされたとは言い難いようにおもう。
まず最初にコンピュータプログラムといってもいろんな種類がある。ゲームソフトとアプリケーションソフトとではまったく性格も使われ方も違うだろう。それに共通するものはコンピュータプログラムとして記述されていることしか共通点はなく、内容は全く考慮されていない。
もちろん中身は著作権法で定める限り、パーソナリティがあってオリジナリティのあるコンピュータプログラムが対象となる。しかし厳密に解釈して、アプリケーションソフトが著作権の対象となるかどうかは、よくよく考えなければならない。アプリケーションソフトは、はたして「思想又は感情を創作的に表現したもの」であろうか。
正確に言うと、アプリケーションソフトは「道具」であろう。最終成果物ではない。最終の成果物を得るための手段に過ぎない。たとえば小説を書くとしよう。そのときにどのようなペンを選ぶだろうか。見た目のデザインで選ぶのか、書きやすさやグリップの握りやすさといった機能で選ぶのか、人によって千差万別だろう。しかしいずれのペンを選ぶにせよ、それは所詮道具にしかすぎない。別にペンでなくても、小説を書くのに木炭のかけらであっても構わないのである。
そうすると今の時代はペンではなく、ワープロが道具と言うことになる。ペンという方法がワードプロセッサというアプリケーションソフトに変わっただけである。
ペンといっても、グリップのラバーが新素材だったり、インクが特殊なものだったりして、新しい機能が付加されたり、新技術を採用したりすると、権利が発生する。その場合の権利は、当然ながら著作権ではない。その権利は特許であり、実用新案であろう。
そうなると、アプリケーションソフトはコンピュータプログラムであっても、著作権の対象物であるとは言えないのではないか。たとえそのアプリケーションにオリジナリティがあっても、その独創性の部分はとうてい「思想又は感情を創作的に表現したもの」とは言えず、著作権で権利を守ることはできない。
さてそれではゲームソフトはどうだろうか。多分ゲームソフトは、「思想又は感情を創作的に表現したもの」といえるだろう。少なくとも「道具」ではない。「思想又は感情を創作的に表現したもの」によって表現されたストーリーや背景設定などを楽しむものであって、著作権での保護に充当すると言ってよい。
(1999/12/03up) |
「DTP-Sウィークリーマガジン 第24号(1999/06/03)」掲載
|
|
|