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第二章 権利ビジネスの崩壊
著作権と工業所有権の違い
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デジタル化していく中で、デファクト・スタンダードを語るとしたら、知的所有権の問題を避けて通るわけにはいかない。ここでは知的所有権の考え方を整理すると共に、デファクト・スタンダードとの関係について述べていく。
まず最初にはっきりさせておかないといけないことは、知的所有権といっても、大まかにいって二つあるということだ、一つは著作権であり、もう一つが工業所有権である。一般に著作権は小説や評論、絵画や音楽などを保護する権利を言う。またコンピュータでプログラミングされたものも、全て著作権法で権利が定められている。一方工業所有権は、特許や実用新案、意匠などの権利を指している。
著作権と工業所有権の違いはどのようなものだろうか。これは「文化」と「文明」の違いといってもよく、個人の人格に付与される権利が著作権で、社会的な人格が所有する権利を工業所有権というようにも分別できる。
著作権はもともと出版物の版元の権利を保護するために生まれた。世界で最初の著作権法は十八世紀初頭のイギリスで生まれたといい、その後創作者もしくは著作者の権利を保護する法律に変わっていったという。
著作権のもっとも大きな特徴は、その強大な権利保護と保護期間の長さにある。しかも、工業所有権が申請、公開、認可という手続きを経なければ、権利が認められないにもかかわらず、著作権は著作物が生まれたと同時に発生することになる。
著作権の権利が極めて大きいのは、これが個人の創作活動―クリエイティビィティに対して認められるものだからである。もちろんこれは他人の著作物をそのまま引用したり、流用したりして、オリジナリティが全く認められない場合は著作権は当然認められない。そこに何らかの創作活動が行なわれ、つまり自分で考えたり閃いたり思いついたりしたことが加わり、その人でなければありようのない「著作」であれば、それはクリエイティブであると認められる。創作性の程度は著作物の判別基準となるが、著作物の質は関係ない。著作物が哲学的で高邁であろうと、スノッブで稚拙であろうとそれは関係ないのだ。
ひとりの人間の個性はただ一つものであり、それを尊重すべきという思想が著作権の背景にある。だからこそ著作権は、「申請」という面倒な手続きを必要としないのである。もっとも法的には、著作したということを証明しなければならないが...。
つまり、著作権は本来の意味で言えば、著作物の権利を保護するためにあるというのは正確ではなく、著作者の人格を保護するためというのが正しい認識である。だからこそ、著作権には、著作者の死後50年という長い保護期間が設けられているのだ。
著作物が無断で引用されることで、著作者の人格が踏みにじられ、著作者本人だけでなく、その人の係累や直接的な利害関係のある人たちにまでその影響がある。もし保護期間がもっと短かければ、自分の書いたものであるにも関わらず、生きている間に、著作物が乱用されたとき、その責任を著作者がとれるか、というと決してそうではない。自分の著作物が預かり知らないところで、著作物の一部分を勝手に悪用されたりする可能性は大いにあるのだ。
だからこそ、著作権には、死後50年という長い長い保護期間が設定されているのである。死後50年も経つと、利害関係にある人はほとんどいなくなっているから、著作物の無断引用があっても、そのことで直接被害を受ける著作者やその関係者はまずいなくなっているだろう。
ひるがえって、特許などの工業所有権には、申請という手続きが必要になる。工業所有権というのは、まず最初に理解しておかないといけないことは、この権利は、権利の保護が目的ではなく、権利の公開が目的だと言うことである。この違いを理解することが必要だろう。
特許にしても実用新案にしても、最初に求められるのは創意性である。今までにないアイディアや工夫、発明がなければ当然工業所有権は与えられない。この創意性の目指すことは「有用かどうか」ということである。もっとも平たく言うと、「世の中の進歩の役に立つか」と言うことである。
世の中の役に立たないものは、当然権利が発生してもビジネスが成立しないから、価値がない。だから、特許や実用新案を取得する意味は、世の中の役に立つ、あるいは世の中を進化させるものであり、その権利を保護することで、ビジネスが成り立つということになる。
もし工業所有権の権利を保護しないとなると、だれも新しい発明を考えたり、工夫したりしなくなるだろう。あるいは発明したり工夫しても、誰もそれを公開しなくなる。門外不出のものになってしまう。いまでも公開したくないが為に、特許の申請を行なわない発明や工夫はいくつでもある。
しかし世の中全体で、損得勘定すると、新しい発明や工夫はどんどん開発してもらい、どんどん公開して貰うほうがいいに決まっている。多くの人がさまざまな発明や工夫を行なうようにして、しかもそれらを広く公開していく方法として、考えられたものが「特許」である。特別に権利を認める代わりに、「発明や工夫の内容を公開しなさい、そして、保護期間が終わった後は、広く世の中で共有できる財産としますよ」というのが、特許や実用新案なのである。
つまり、工業所有権の目的は、発明や工夫といった新しい技術の「保護」にあるのではなく、一定期間保護することによって、「公開」することにある。だから特許であっても最長15年という期間しか保護されないのだ。なぜなら、技術的発明や工夫は、時間が経つと陳腐化するし、それらは個人の帰属するものではなく、誰であっても同じ手続きを経ることで同じ結果を得られる「事実」だからである。
著作権法の第2条では著作物は「思想又は感情を創作的に表現したものであって、文芸、学術、美術、又は音楽の範囲に属するもの」と定義している。これは明きからに「個人の人格」に与えられるものを指している。だから著作権は「文化」なのである。特許などの工業所有権が、人格とは関係なく「技術」に依拠している「文明」と違うのである。
さて著作権が個人の人格を保護するものだと言っても、その多くは他者の著作物の影響もしくは恩恵を受けて創作されている。従って著作物の権利も、当然、権利を保護するということだけでなく、社会全体の利益で計るという判断も必要となる。断固として、著作物の権利を保護するのではなく、他者の創作活動が阻害されず、より創作活動が生産的に行なわれるように配慮されていることも知っておくべきことだろう。
(1999/12/01up) |
「DTP-Sウィークリーマガジン 第23号(1999/05/20)」掲載
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