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■戦争の真髄は「孫子」にあった
三国志といえば、誰を思いだすでしょうか。やはり天下希代の参謀であった諸葛亮孔明でしょうか。あるいは美髭公とよばれた関羽雲長でしょうか。それとも、一回の農民から傭兵隊長となり、蜀漢を建国した劉備玄徳でしょうか。
中国では、粗暴でしたが愛嬌のあった張飛に人気があり、関羽は神様になりました。中国全土にある「関帝廟」というのは、義の人・関羽を祭っている神社です。
私たちが知っている三国志は、もちろん正史ではなく、羅貫中という人が脚色した「三国志演義」という小説が元になっていますね。日本で読まれている三国志は、ほとんどがこの「三国志演義」を下地にしています。吉川三国志も柴練三国志もそうですね。
この「三国志演義」は、一般庶民にもわかりやすい勧善懲悪のお話しになっているわけです。まあ、日本で言う水戸黄門みたいなもんですな。正当な王朝の後継者としての王孫である劉備玄徳の一党を主人公にし、漢(後漢)を簒奪した曹操孟徳が悪役になっています。一般に、劉備は、漢を再興できなかった「悲劇の英雄」であり、曹操は「乱世の奸雄」だと言われてますね。
しかし曹操は本当に「乱世の奸雄」だったのでしょうか。実際には、そうではなく、曹操は武将としてだけでなく、政治家としては優れた人物だったようですな。漢王朝は、当初王族の力を殺いだために、前漢は外戚(皇后の親戚)によって滅び、後漢は宦官がほしいままに政治を壟断したため内部崩壊していきました。だから新しい王朝に変わるのは当然のことだったかもしれません。
曹操の父親は宦官の養子で、彼はその義理の祖父が宦官の時に作り上げた資産と地位があったからこそ、漢の丞相になることができました。しかし彼は外戚も宦官も用いることはありませんでしたね。曹操は漢王朝の失敗を見抜き、外戚に権力を与えず、宦官も重用しませんでした。その方針は彼の子孫に受け継がれています。
ですから、彼は奸雄ではなかったといってもいいでしょうな。曹操は後漢末の群雄と戦うことで、「魏」という国を作ったわけですから、かれには「武王」という贈り名が与えられています。もっとも、彼が宦官や親戚の実力者を排除したおかげで、かれの王朝は部下の将軍であった実力者の司馬氏に奪われてしまいました。
彼が戦上手であったことは、彼が春秋時代に書かれた「戦争論」である「孫子」を肌身離さず持っていたことでも、伺い知ることができます。ただし当時の武将はたいてい「孫子」を暗唱するくらい読んでいたでしょうから、別に曹操が孫子を愛読していたことはごく普通のことだったかもしれませんね。
とはいえ、私たちがいま文庫本で読める「孫子」は、曹操が持っていたものなのです。一般に「魏武注孫子」と言われるもので、呉王の将軍であった孫武の時代から約八百年近くも過ぎたものでした。後世に伝えられた「孫子」は、「魏武注孫子」だけだったそうです。もっとも「孫子」を肌身離さず持っていた曹操も、蜀と呉の連合軍に赤壁の戦いでは、九死に一生を得るような惨敗を喫しましたけどね。
[下記のトピックに続く]
■戦争せずに勝つのが上策
■競争というラットレースから抜け出せ
■勝ち易きに勝つとは「胴元」になることだ |
工学社/Professional-DTP誌 2001年2月号所収
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