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発売は3月の末を予定していると、寺田さんはいった。3月の末に発行するためには、遅くとも2月中には原稿を書き上げていなければならない。いやそれでは遅いか。1ヵ月では残っているレイアウトと出力や色校正、そして印刷製本などの工程をこなすには多少無理がある。やっぱり1月中に書き上げるつもりで書いても多少遅れるだろうから、12月と1月の2ヵ月で原稿を書き上げるというのが、取りあえず目指す納期だろう。そうすると、1ヵ月で章を三つやっけねばならない勘定になる。おお、これはたいへんだ。12月で1〜3章が書けるだろうか。多少不安はあるものの書いていくしかない。もう船を漕ぎだしてしまった以上、目的地に着くまでは、嵐が吹こうが槍が降ろうが、漕ぎ続けていくしかないのである。
もっとも最初はたいへんハッピーになっていて、浮かれ気分の躁状態で、なんと12月11日には、第1章がほんんどできあがっていた。およそ40ページ分である。実際シーボルトから帰った翌日の12月4日から書き始めたから、11日ではたった8日しか立っていない。我ながらすごいぞ。この分では何とか予定どおりにできそうだと、こっそりほくそ笑んだ。
この時はレイアウトの制作をどうするのかということを決めていないにも関わらず、一応レイアウトしたものを作った。そしてその日に寺田さん宛に、できたレイアウトを送った。といってもQuarkXPressではなく、Illustratorで約40ページを作成した。QuarkXPressの使い方を身に付けながらでは時間がかかるので、手っ取り早いIllustratorで組むことにしたのである。やっぱりレイアウトしたものの方がわかりやすいのだ。
第1章は当初、うまく書けるだろうか危惧していた「出力依頼書」の章であったが、あまり後のことを考えずに、思いつくまま書きまくったら、あっさりできあがってしまった。おかげでDCSやOPIの話は後の3章でもう一度書くことになってしまった。しかしDCSやOPIというシステムがなぜ存在するのかという話は、出力依頼書を語るいう切り口ではいささか突っ込み過ぎだから、別に改めて書いたほうがいいのである(と自己弁護しておこう)。これがあれば出力時のコミュニケーションミスによるトラブルは防げるであろうという「理想」の出力依頼書を目指してトピックを綴っていったら、ひとつの章として立派な分量になってしまったのである。もっともまだ完全ではなかったので、最終的には後でかなり書き足すことになり、第1章は最終的には64ページにもなってしまった。
翌日寺田さんから、原稿が届いたというメールがきた。具体的にどういう書き方をするという取り決めなど全くしないまま書いたので、原稿の書き方に注文がついた。基本的に見出しを多く入れ、読みやすくし、大見出し(この場合は各トピックのタイトル)は「具体的にかつオヤジ向け実用書のようにベタな付け方をする」というものだった。
つまり「DCSで出力する」なとどいうタイトルでは、さっぱりわからないというのである。大見出しを読んだだけでだいたいどういうことが書かれているのかわかるように書いてくれということだった。ということは、なんだなこれはまあ言ってみれば女性週刊誌のノリでタイトルをつければいいということだろうか。いやいや女性週刊誌は言い過ぎか。それでは「なんとびっくり、DCSには4人の隠し子がいた!」などと書かねばならないのか。
もちろんそんなことはないが、少なくとも雑誌的な作りに近いものが必要らしい。だから「DCSであらかじめ分版ファイルを作成しておくと、出力が早くなる」といった具合にタイトルをつけたほうがいいのである。
もちろんわかる人には「DCSで出力する」で十分わかる。しかしながら当たり前のことだが、わからない人のために出力の本を書くのであって、大見出しでだいたいそのトピックにどのようなことが書かれているのかわかるようにした方がいいということらしい。できれば、本文を読まなくても大見出しと中見出し、小見出しをさらさらと流し読みするだけで、そのトピックのテーマがわかるような書き方が極上だという。
第1章のチェックバックは1週間ほど後になるということだったので、できればチェックバックが帰ってきてから次の章に取り掛かるほうが、後々修正が少なくて楽なのだが、そうは言ってられないので、引き続き第2章に取り掛かることにしたのであった。 |
このコンテンツは1997年10月2日に書かれたものです。 |
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