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第一章 ビル・ゲイツ豹変す
イノリイの空の下で

 インターネットが日常的に語られるようになったもっとも大きな原因は、「モザイク」というフリーウェアのソフトの存在だろう。もちろんネットワークの技術そのものから始めると、アーパネットの時代にまで遡らなければならないが、インターネットを普通の人が使うソフトにしたのは、間違いなく、NCSAの「モザイク」だった。
 ことの起こりは、当時、イノリイ大学内のNCSAにいたマーク・アンドリーセンらの学生や従業員が、インターネット上にあるテキストブラウザを見つけたことに始まった。
 もちろん一番最初に、ネットワーク上で動作するハイパーリンクのシステムを作ったのは、ティム・バーナーズ・リーであった。かれはスイスにあるセルンという研究所にいたが、そこでネットワークでつながったコンピュータ同士をハイパーテキストでリンクさせることを思いつき、そのソフトを作ったのだ。セルンは素粒子を研究するところだが、規模が大きいので、関連の技術として研究が許されたのだろう。他のコンピュータにある他人の論文を即座に引き出すことができるということであれば、反対する研究者はいなかったのかもしれない。
 ティム・バーナーズ・リーはこのソフトを「ワールド・ワイド・ウェブ」と呼び、1990年のクリスマス前に完成した。プログラミングは、発売されたばかりのNeXTで行なわれたので、初めてハイパーリンクが行なわれたコンピュータは、NeXTであった。
 このときの「ワールド・ワイド・ウェブ」にはテキストで記述され、テキスト同士をリンクする機能しかなかった。しかもNeXTというすこし変わったコンピュータで作られたために、他のコンピュータへの移植が進まず、普及しなかったらしい。そこで、ティム・バーナーズ・リーは「ワールド・ワイド・ウェブ」のソースコードを公開し、NeXT以外のコンピュータでも動くように、呼びかけたのだ。これが、1992年の事である。普及させるためには、MacintoshやIBM互換機でも動く必要があったからだ。

 マーク・アンドリーセンらが見たソフトは、そうした「ワールド・ワイド・ウェブ」を別のプラットフォームに書き換えたソフトだった。しかしそれを見たとき、彼らは思った。「是非、画像を入れたい」と。
 NCSAで最初に「ヴィオラ」という「ワールド・ワイド・ウェブ」をベースに作られたXウィンドウズ用のソフトを見つけたデイビット・トンプソンも、マーク・アンドリーセンも、画像を処理するソフトの開発をしていたから、テキストベースでしかハイパーリンクできない「ワールド・ワイド・ウェブ」は、もの足らなく見えたに違いない。また画像を扱えるようになることで、どれほどエキサイティングになるということを直感したのだろう。
 彼らは上司の許可を得て、「モザイク」の開発に着手した。開発は1993年の1〜3月のあいだ行なわれ、結局1993年8月にUNIX版が、そして翌月にMacintosh版とIBM PC互換機版がフリーウェアとしてリリースされた。

 「モザイク」はインターネットのインフラが貧弱で接続者数も少なかったにも関わらず、驚異的な数のダウンロードが行なわれた。公開して数ヵ月で百万というオーダーに達した。百万といっても、モザイクの手直しは頻繁に行なわれので、実際のユーザーはそれよりも少ないに違いないが、それでも当時のネットワークは大学の研究所などを中心に構築されていたわけで、その点を考慮すると、やはり「モザイク」化け物ソフトであったことは間違いない。
 爆発的な勢いで「モザイク」が普及していくのをみて、戸惑いを隠せなかったのは、NCSAであった。「これだけダウンロードされるのだから、ビジネスになるに違いない」という欲望が学内に渦巻いた。学内には開発に携わったものたちを始め、フリーウェフ派の人たちもいたが、結局はライセンス派がフリーウェア派をしのぎ、NCSAは「モザイク」のライセンスを一般の企業に行なうようになった。

 このことでひどく落胆したマーク・アンドリーセンはNCSAを去った。正確に言うと、彼はイノリイ大学を卒業したのだが、彼の立場からいうと、そのまま大学に残ることは可能だったにも関わらず、かれは残ることを選択しなかった。そして1994年の1月にシリコンバレーにある、とある企業に就職したのである。そしてこのNCSAを去ったマーク・アンドリーセンを救い上げたのが、シリコン・グラフィックス社から引退したばかりのジム・クラークだった。
 シリコン・グラフィックス社が軌道に乗ったことを実感したジム・クラークは、今までのキャリアを一旦精算して、全く新しい人生を求めたようである。なにか一旗上げることのできるビジネスを模索していたのだ。最初は双方向テレビのビジネスを考えていたが、ビジネススパンが長そうなので、別のビジネスプランを探していたのである。そのとき、ちょうど、NCSAを辞めたマーク・アンドリーセンを紹介する友人がいたらしい。
 ジム・クラークもシリコン・バレーにいたから、マーク・アンドリーセンと接触し、彼の話を聞いた。ジム・クラークがシリコン・グラフィックス社を作ったときは、学生達(ジム・クラークは大学の先生をしていた)を焚き付けて、彼のビジネスに巻き込んで行ったが、おそらく今回は、その逆であろう。ジム・クラークはマーク・アンドリーセンの話を聞く立場になったに違いない。そしてマーク・アンドリーセンの考え方を吸収し、かれの考えていることをサポートすることにしたのであろう。

 シリコンバレーで何度なく会ううちに、彼らふたりは「モザイク・キラー」になるべきソフトを開発することで合意した。そしてすぐさま、ふたりはイノリイ大学に飛び、マーク・アンドリーセンと一緒に「モザイク」を開発した仲間達を引き抜いたのである。「モザイク」を管理し始めたNCSAにうんざりしていた彼らは、ジム・クラークの要請に一も二もなく同意し、「モザイク・キラー」、すなわち後の「ネットスケープ・ナビゲーター」が生まれることになったのである。1994年の4月のことであった。
 当初「モジラ」と呼ばれた「ネットスケープ・ナビゲーター」は、1994年10月に公開された。ブラウザーは「ただ」だった。期間限定の使用版は、無料配付にしたので、実質的には「ただ」同然だったのである。
 それにしても、ジム・クラークの思い切りのよさには、感服するしかない。もともと3D処理のためのハードウェアを開発・販売していたジム・クラークが、マーク・アンドリーセンの話を聞いたとしても、ただで配って、普及率を高めるしかないと達観したわけで、彼の時代に対する嗅覚の鋭さは特筆すべきものだろう。
 彼らの読みのとおり、「モザイク」を大幅に強化した「ネットスケープ・ナビゲーター」は、「モザイク」以上にブレークした。そして本家の「モザイク」をはねのけて、あっという間に、インターネットのHTTPブラウザーのスタンダードになった。

 もう時代はソフトウェアをただで配る時代になっていたのだ。普及することこそが勝利への道であることを、ジム・クラークは理解していたのに違いない。ここにソフトウェアのライセンスビジネスの時代は、転換期を迎え、ただでもいいから普及させ、デファクト・スタンダードのなることが、ソフトウェアビジネスで勝負を決めるということが、誰の目にも明からなったのである。
 「ネットスケープ・ナビゲーター」の爆発的に普及は、当然マイクロソフト社にも影響した。ビル・ゲイツは、自前でネットワークを構築する路線をあきらめて、インターネットというオープンな環境で勝負しなければならないことを実感した。ひとり独走するネットスケープ社を追いかけるという選択肢を、いやもおうもなく受け入れざるを得なくなったのだった。ここにインターネットでの覇権をかけた、ブラウザー戦争が勃発したのだった。
(1999/07/07up)
「DTP-Sウィークリーマガジン 第14号(1999/01/28)」掲載



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